朝、たまたまTVのスウィッチをつけるとジャズピアニストの上原ひろみさんと五嶋龍さんの二人がとても楽しそうに演奏している。
“題名のない音楽会か!”と。この番組の現在のホストは五嶋龍だから。やはりヴァイオリニストの五嶋みどりさんの弟さんで、コンダクターの佐渡裕さんの後任にになってから彼の演奏がたまに聴けるので嬉しい。
それにしても、お二人の演奏、表情からすごい楽しさが伝わってきてそのまま見入って聴き入ってしまった。ほんの数分。
終わって”今日はとても楽しい!”と、五嶋龍が笑顔でしみじみ言っていた。他のひとと共演しても楽しいでしょうが、自由な上原さんとの共演が格別の楽しさになったのかもしれない。
上原ひろみさんの演奏はTVで何度か聴いたことがあるけど、こんな自然に感じたのは初めてで、お二人のこの演奏の瞬間に出会えたのはラッキーだった。
上原さんはピアノのように自由で自分が感じればジャンルは関係無いと。私もそう思うけど。
音楽は不思議だ。演奏者がいて、聴く人がいて。どう感じる。ひとによって感じ方が違うのだから。
また技術、パッションも。でも比べられないね。好き嫌いも有る。
体で感じ踊るダンス音楽もあるし、知的な、感覚的な現代音楽も。
セロニアス.モンクだったか。”ジャズは名曲は無い。名演奏だけだと。曲がよくても演奏が悪かったら感動しない。
音楽はいい音楽と悪い音楽があると、だれか言ったけど。
演歌が好きなひと。ロック、クラッシックが好きなひと。ジャズでも時代によって進化しているのでその中でも好き嫌いが。
ワールドミュージック、世界中にはいろんな音楽がある。
音楽はマジックがある。
話はもっと飛ぶけど、昔むかし興味を持って買って読んだことがある、思想家の鶴見俊輔の著作”限界芸術論”を、先月、朝日新聞のコラムで野波健祐氏が、紹介していた。懐かしく、興味を持った本だったので紹介します。
野波氏の引用
“著作では「芸術とは楽しい記号と言ってよいだろう」と始まる。専門的芸術家が作り、その体型を知る専門的享受者が親しむ芸術を「純粋芸術」玄人が企業家と合作して大衆が楽しむ芸術を「大衆芸術」非専門的芸術家が作り、非専門的享受者が楽しむ芸術を「限界芸術」と位置付けた。いわば素人の作品を素人が楽しむ芸術。「マージナル.アート」からの造語で、周縁芸術、境界芸術の方がわかりやすいかもしれない。鶴見は自作解説に「暮らしを一つの領土と見てそのヘリにあたる部分をいくらか専門家した芸術、学問、政治と見る」と記し、それぞれを「限界芸術」「限界学問」「限界政治」と考えてみようと提唱している。「限界芸術」について宮沢賢治の言葉を紹介し、「それぞれの個人が自分の本来の要求にそうて状況を変革して行く行為」として捉えている」と記す。……。
久しぶりに「限界芸術」ちゃんと読み返そうと本棚を覗いた。
あった、ありました奥の方に。きれいなままの文庫本が。