学校で週一回教えているのですが、生徒は二十代の女性がメインで、必ず
“先生、何時から英語しゃべれたんですか?”と言う質問を受けます。
私は、アメリカにも住んで居たので英語で話す事は出来ますが、もちろんネイティブスピーカーではありませんし、音楽がメインなので、通訳になりたいと思った事もありません。私にとって言葉は”toolくらいに思っていますし、だから、いっぱい間違えますし、解らなかったら聞きますし、正式なな英文を作らなければならない時は、ネイティブにチェックをお願いします。
しかし日本語よりボキャブラリーも少ないし、下手なのに、英語で話した方が言いたい事が楽に言えたり、気分もいい事が往々にあります。
高校を卒業して上京。最初はアルバイトで1年お金をためて大学の2部に行こうと思っていましたが、いつもジャズのレコードを聴いたり口ずさんでいる私をみて、ある日、ボーイフレンドが、”みっちゃんジャズをやったら!”と言いました。
そんなアドヴァイスで、軽い気持ちで、ジャズ雑誌に広告が載っていたアンジャズスクールと言うのを見つけて入りました。(後にアンで講師をしましたが、経営者は代わっていました)
レッスンに通い出したら面白くなってこの道に進もうかな?と、思い、大学に進学は止めて、歌をやる事にしました。
やる事が決まって、月謝などお金がかかるので、アルバイトより会社に勤めたほうが収入も安定するので、”リンガフォン”という、外国語の出版社の試験を受けました。
その会社は”隔週5日制、英語の学習の機会あり”というので”ちょうどいいや”と思いました。”リンガフォン”はいわゆる外資系の会社で、大体その頃、親元通勤、短大卒以上という感じなのに、”やってみなさい!”と、私を雇ってくれました。その会社に尚美を卒業して、NYに行くまでの5年間勤めました。
内容は、書店やデパートの語学コーナーで”リンガフォン”の教材を説明、販売する仕事でした。その頃36カ国語あり、5カ国語くらいの簡単な挨拶くらいは大体言えました。今は全部忘れましたが。
教材はアメリカンイングリッシュがメインで、英語のデモテープを毎日かけていました。私は何の新鮮さも感じず毎日聞き流し、時々英語のテープを聴いているふりしてジャズのテ-プを聴いていたりしました。
いちばん長く勤めたのがお茶の水の丸善(後に通学した尚美学園は水道橋だったのでたすかりました)新宿紀伊国屋、東京駅の大丸、そして池袋西武にも派遣されました。
今思うと、惰性でも、毎日同じデモテープでもリンガフォンを聴いていたおかげで、耳も鍛えられ、随分英語の勉強になったように思います。そしてお給料で、尚美の学費もNYの渡航費も賄えました。