気持ちは”二十歳”でも大人の年令なのだから母も当然もっと大人の年令だ。私には、先日まで二人の母がいたが、一人は私の実の母、現在86歳。父の死後、一人が自由でいいと、自分の家を兄家族にわたし彼等と同居せず一人で私の郷里の沼田で生活している。野球が大好きで部屋に松井のポスターを飾るほどのジャイアンツファン。野球シーズンは、彼女の六畳二間のアパートに連日野球好きのお友達が集まってのTV観戦のようだ。今でも夏の暑い時期を除いて、着物を着ている。昔は、太っていてエプロンの似合う肝っ玉母さん風だった。大分足も弱って、小さくなってきたけど、依然好奇心旺盛、まだ吉野ファミリーのゴッドマザーは健在という感じだ。私は彼女の事を”おかあちゃん”とよぶ。
もう一人の母は、残念ながら数日前、他界した。71歳だった。彼女は私の結婚していた人のお母さんで、結婚していた時は同居していたが、世間でいう嫁姑とはほど遠く仲が良かった。背がスラッと高く綺麗な人で昔は原節子ばりだったらしい。私が、留学、その後、私達は離婚することになってとても残念がった。でもそれ以後も、私と彼女は前以上に仲良しだった。一緒に食事をしたり、いろんな事を話した。私の、ライブにはほとんど聴きにきてくれたた。彼女は23年間にわたる腎臓透析患者だった。病気になってからの彼女は、病気と共に生きるという考え方に変わりとても立派だった。まわりの患者仲間のリーダー役になり、みんなの模範となって病気と闘い、国の医療制度の改善などにも奮闘した。私は、母の依頼で、糖尿病などを併発して目の見えない透析患者のためにの朗読テープをダビングするお手伝いをさせていただいていた事を嬉しく思う。今年スウェーデンにレコーディングに行く時は、”化粧品のお土産買ってきて!”と、障害年金をためたおこずかいから、いらないと言うのに”みっちゃんへ”という封筒に入れた餞別をくれた。出来上がった私のCDをプレゼントしたら、お友達の分と何枚も買ってくれた。先日電話で、”胃が変なので検査する”からというので、”病気のベテランだから大丈夫!”と私がいったのが、最後になってしまった。死んだら、”献体”との遺言だったので、お別れの会から、そのまま病院へ見送った。
おかあさん”よくがんばったね、おつかれさま、ゆっくり休んでね。
そして、私を可愛がって下さって、ありがとう。”